翻訳って奥が深いんですね。
前に、村上春樹の翻訳は村上春樹臭が漂っていて……とか書いたのだけど、
【本の記録・感想】ふと再会してみたくなる - kai8787の日記
それは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の冒頭を読んだだけの印象だったので、トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』を村上春樹の翻訳で読んでみた。
すんなり入ってくる。わかりやすい。翻訳でこんなに違うものなのかとびっくりした。
例えば、この部分。語り手の「僕」とヒロインのホリー・ゴライトリーの会話。
瀧口直太郎訳(太字は傍点を表す)
「あのブルースと同じやつだろう?」(訳注 ブルースは「青」にかけて。他に「憂鬱症」の意味もある)
「ちがうわ」と彼女はゆっくりいった。「ブルースはお腹があんまりいっぱいになったり、雨が降りすぎたりすると起るのよ。ただ哀しいだけのこと。ところが、あのいやな赤ときたら、まったくぞっとするわ。何かに恐れ、汗水流して働くんだけど、いったい自分が何を恐れているかわかんないのね。何か悪いことが起るってこと以外には、なんにもわかんないのよ。あんたもそういう気持味わったことある?」
村上春樹訳
「それはブルーになるみたいなことなのかな?」
「それとは違う」と彼女はゆっくりとした口調で言った。「ブルーっていうのわね、太っちゃったときとか、雨がいつまでも降り止まないみたいなときにやってくるものよ。哀しい気持ちになる、ただそれだけ。でもいやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんたちが悪いの。怖くってしかたなくて、だらだら汗をかいちゃうんだけど、でも何を怖がっているのか、自分でもわからない。何かしら悪いことが起ころうとしているってだけはわかるんだけど、それがどんなことなのかはわからない。あなた、そういう思いをしたことある?」
ねっ。すごく違うでしょ。もう別もの。これはやはり時代背景というものもあるのでしょうね。現代語が英語に近づいているってこともあるし。後の解説によると、瀧口直太郎訳の初刷が1960年、村上春樹訳は2008年だそう。でも、違う翻訳者で読み直してみるというのも、おもしろいですね。
今度、村上版「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も読んでみようかな。
- 作者: トルーマン・カポーティ,村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/02/29
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- 作者: トルーマンカポーティ,Truman Capote,村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
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この本には表題作のほか、以下の短編も収録されている。賑やかな娼家からひっそりとした山の中に駆け落ちする「花盛りの家」、囚人たちの日常が描かれる「ダイヤモンドのギター」、すごく年の離れた親友との切なくあたたかい「クリスマスの思い出」。どれも読みごたえがある短編だが、私は「クリスマスの思い出」が心に残った。
都市の迷路に立つ
ニューヨークには行ったことがない。随分前、ボストン、プリンストン、ミネアポリス、ロスには行ったことがある。アメリカの印象は一言で言うと “るつぼ” (人種のことだけじゃなく)だ。
でも、私の見たアメリカはほんの一部のホワイトカラーの世界だし、二週間の出張で東から西へと足早に通り過ぎただけの上っ面の旅だった。ワーカーホリックの頃の遠い思い出である。
ポール・オースター『ガラスの街』は、ニューヨークを彷徨うということのリアルを描いている。様々な人間の浮浪する姿が通りや交差点の名前とともに通り過ぎていく。
探偵小説を書いている小説家クインは間違い電話をきっかけに探偵になる(探偵といっても、この本はもちろんズバリ犯人はこいつだというミステリー小説ではない)。ある人物を何日も続けて尾行することで、次第に街と同化していくクインの姿が、ニューヨークという混沌に消えていく錯覚に見舞われる。
クインは様々な様態で街を歩く。散歩し、尾行し、彷徨い、ボロボロに憔悴するまで路地に潜む。こういうスタイルの小説を読むと異空間にもぐり込める。そういう現実と遊離した時間がたっぷり楽しめる作品だ。
読後しばらく、ニューヨークの路地で立ちすくむ自分がいた。
- 作者: ポールオースター,Paul Auster,柴田元幸
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暗闇を語ることー希望 - kai8787の日記
花言葉の物語~ハナニラ
久しぶりの散歩の途中で、斜面に咲くハナニラの群生を見つけました。ハナニラはとても可憐で透き通るような花の白が清楚だなと思いました。
でも、ハナニラの花言葉は、悲しい別れ、耐える愛、卑劣、恨み、星に願いを。なかなか凄いラインナップですね。
この花言葉を使って物語を書いてみます。
あの人とつき合い始めて、もう3年になります。お互い仕事も忙しくなかなか会えませんが、頻繁にLINEでやりとりしてるので寂しくはありませんでした。
彼は取引先の営業マンで、私の会社にもよく出入りしており、そんなときは二人にしかわからないサインで合図しあうのです。今夜デートできるかどうか確かめ合うのにもドキドキしていました。
ある日、資料を届けに彼の会社まで行くことになり、私はウキウキして電車に乗りました。築地駅から少し歩いたところにある彼の会社の前にはちょっとした遊歩道があって、私の背の高さほどの植え込みが迷路のようになっていました。
広い真っ直ぐな車道脇の歩道もあるのですが、私はそのくねくねした遊歩道を歩くのが好きでした。
ふと、聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきました。あの人です。かわいがってる後輩の清水さんと一緒に会社に帰るところみたいで、私と緑のカーテンを隔てて並んで歩くような形になりました。
「先輩んとこ、今度2人目いつ生まれるんでしたっけ?」
「あぁ、あと一ヶ月きった」
「楽しみですね」
「まあな」
今のは聞き間違い、それとも人違い、そう、そんなはずがない。彼に家庭があるだなんて。あまりのことに驚いて立ち止まっていた私は、急いで緑道を抜け、彼らに追いつきました。
彼でした。振り向いた彼の顔に怯えたような陰をみとめて私は悟りました。私は騙されていたのです。手をぎゅっと握ってわなわな震える私に、彼は何事もなかったかのように接しました。いつものように他人行儀に。
一人になった私は、彼の卑劣を恨みに思うより、悲しい別れの予感にたじろいている自分を知って驚きました。。
「私、別れたくないの」
そうつぶやいてみると、そこには耐える愛が横たわっています。<別れるか耐え忍ぶかソレガ問題ダ>、他人事のようにそんな文句が頭に浮かびました。まさか自分がこんな状況になるなんて、3年もまるで気づかなかったなんて、現実のこととはとても思えなかったんです。
「会いたい」「説明させてくれ」
あの人からのLINEが現実をつきつけてきます。私はスマホを裏返して夜空を見上げました。星に願いをかけられるものなら、私は今日を忘れたい。あの人の不実をきれいさっぱり流してしまいたい。
今日もあの人はさりげなくサインを送ってきます。私は立ち上がってひっぱたく代わりに、星に新たな願いをかけました。
微妙な距離ー男女の友情そして恋
男と女の友情には、ほどよい距離感が必要だと思う。性的にドライなところがないと続かないのは当たり前として。相手の異性を感じない程度の距離感。二人でお酒を飲んだとしても、「じゃあな」と別れるくらいのさっぱりした関係。
絲山秋子『沖で待つ』のなかで、主人公は同期入社の「太っちゃん」と、お互いに人に知られたくない秘密がばれないよう、自分が死んだあとに証拠を消去し合う申しあわせを交わす。
約束をする前に「太っちゃん」は別の同僚と結婚していたし、二人は転勤して他の場所で働いていて、しばらく経っての二人飲みの席でのことだった。
何故そんな協約を結んだかというと、お互いにそこまで相手に興味がないはずで、中身を見ないという信頼感が持てるから。
このくらいの距離感があると、友情って成立するのかもしれないなと思う。でも、それが秘めたる恋心に変わるのはほんの1cmのことかもしれない。友だちから恋人へ、恋人から友だちへ、人の気持ちはうつろうものだ。
思えば、恋というのは不思議な現象である。いったい何が発火点になるのか、さっぱりわからない。あの人のここがいいとかっていうのは、後からくっつけた理由で、好きになる瞬間はもう凄く感覚的なものなのだ。だから、どんな欠点があっても何だかんだと突き放せなくなる。それは友だちも一緒か。
恋はもう究極の妄想なのだ。理屈じゃなくて、落ちちゃうもの。ブレーキが効くか効かないかはあるけれど。
恋を秘められるようになったら、大人なのかもしれませんね。
- 作者: 絲山秋子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/02
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この本には、他にも「勤労感謝の日」という短編も載っている。36歳、独身、無職の女性のとある「いーことなんかあるわけないじゃん」な一日を切り取っていく。主人公の心のなかの軽妙なツッコミがおもしろかった。
ただ信じる、それが勇気
今日は具合が悪くて臥せっている。とても良い天気で日当たりのよい部屋は昼間の暖房がいらないくらいだ。
このところ体調もだいぶ良かったので、今日からボランティアに復帰できるかなぁと思っていたが、今朝はしんどくて起きられず、出かけるのを断念せざるを得なかった。
こんなふうに当日にならないと体調がわからなかったり、行きつ戻りつというのが、ボディーブローのように効いてくる。
こういうことは何度も経験してるのだけれど、不安に打ち勝つのは簡単ではない。「もう復帰できないのではないか」「いつ出てこられるのかわからないのでは、皆に迷惑なのではないか」そんな思いが心をよぎる。
でも、ボランティア仲間は待っていてくれる。「出てこられるときに来ればいいよ」と言ってくれる。あたたかく待っていてくれるのだ。
私が仲間を信じることが大切なことなんだと思う。自分を責めることは、仲間の思いを裏切ることだからだ。私が私を責めることを誰も望んでいない。
いまはまだ悲しくて、すっかりそう納得できないけれど、また、体調が良くなる時が必ず来ると信じよう。そして勇気を失わずにいよう。焦るな、自分。
辞書っておもろいんですね【恋愛】
辞書っていうと、やはり高校生の頃に一番よく使っていたかなぁ。私のはセキセインコにかじられてボロボロになっていた。友だちには調べた英単語にマーカーで印をつけてピンク色になってるコや、辞書を1枚1枚くしゃくしゃにすると引きやすくなると教えてくれるコもいて、何だか懐かしい。
サンキュータツオ『学校では教えてくれない!国語辞典の遊び方』は、辞書の奥深さを教えてくれる。
例えば、新明解国語辞典での恋愛の項がおもしろい。
れんあい【恋愛】
初版
一組の男女が相互にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること。
毎日会わないではいられないって、すごいな。これが版を重ねるごとに変わっていき、第五版になると、バージョンアップがはなはだしく、こうなる。
(第五版)
特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
辞書にこんなこと書いてあるなんて知らなかったなぁ。おもしろい。
ちなみに、岩波国語辞典の場合は
男女間の、恋いしたう愛情。こい。
これだけ。さすが岩波。武骨で揺るぎない。
新明解は面白いな。あとなるほどと思ったのはこれ。
こうぼく【公僕】
〔権力を行使するのではなく〕国民に奉仕する者としての公務員の称。〔ただし実情は、理想とは程遠い〕
最後の一文がなかなか鋭い。いや、これは辞書として言葉のニュアンスを伝えようという真摯な取り組みなのだろうけど。ウケた。
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書くことで失われるもの
フランツ・カフカは迷う人である。本を出したいと思いながら、出版が決まりそうになるとやっぱり出したくないと思ったり、結婚を申し込んだ女性から承諾されると、自分がいかに結婚生活に向いていないかを延々と手紙に書くといったぐあいに。
迷い続ける=決断できないというのは、一見短所のように思うけれど、それは妥協しない強さでもある。
頭木弘樹『カフカはなぜ自殺しなかったのか?弱いからこそわかること』では、カフカの手紙や日記を年代順に追いながら、死にたいと苦しみながらも自殺未遂も起こさずに生き抜いたカフカの人生を振り返っていく。
カフカが持ちこたえたのは、書いていたからというのもあるんじゃないだろうか。特に手紙は、恋人に対して毎日書いていたようだ(そして少なからず彼女からの返信もあった)。日記が小説のきっかけになることもあり、彼の才能を信じて後押ししてくれる作家の友人もいた。
こう書いてしまうと、あっけなく終わってしまうが、カフカの苦悩は深い。例えば、本に対する思い。
本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。
そしてまた、「書く」ということについての覚悟を綴ったこの文章。
このところ、ぼくは自分についてあまり書きとめていない。多くのことを書かずにきた。それは怠惰のせいでもある。
しかしまた、心配のためでもある。自己認識を損ないはしないかという心配だ。この心配は当然のことだ。というのも、書きとめることで、自己認識は固まってしまう。それが最終的なかたちとなる。そうなってもいいのは、書くことが、すべての細部に至るまで最高の完全さで、また完全な真実性をもって行われる場合に限られる。
それができなければーーいずれにしてもぼくにはその能力はないーー書かれたものは、その自律性によって、また、かたちとなったものの圧倒的な力によって、ただのありふれた感情に取って変わってしまう。そのさい、本当の感情は消え失せ、書かれたものが無価値だとわかっても、すでに手遅れなのだ。
書くことで失われるものの大きさをカフカは知っていた。言葉にした瞬間、選びとらなかったものたちが消え去ってしまうことを。
ここに、カフカが死ぬ瀬戸際まで行きながらも、死なずに追い続けた創作への厳しさを垣間見るのである。
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