kai8787の日記

編み物と散歩と読書とダイエット

惰性OK

よく「毎日惰性で暮らしてる」って嘆いてる人がいて、もっと有意義なことをやりたいという思いがあるんだろうけれど、私は惰性で暮らせるなんてスゴいことだと思う。

顔を洗う、歯を磨く、ご飯を食べる、出かける、お風呂に入る、……。そういう一つひとつが今の私にはとても大変なので、惰性でできちゃう人は健康でエネルギーがあるなぁと思うのがひとつ。

そして、惰性でできること、つまりルーティーンを持っているって、実はそれだけで強みなんじゃなかろうか。

私の友人に、DVから逃れてウィークリーマンションに逃げ込むという体験をした人がいる。彼女は日常を崩さなかった。毎朝同じ時間に起きてシャワーを浴び、朝食をとり、テレビをつけて、歯を磨き、読書をする。午後は昼寝をし、食料を買いに出かけ、夕食を食べて、水割りを飲みながら読書するかテレビを見る。そして決まった時間に就寝する。そういうルーティーンをあえて保ったそうだ。

何か日常とは異なる事件が起きたとしても、ルーティーンをこなしながら、少しずつ日常の自分を保ったり取り戻していくことができる。それは、とても大事なことだと思う。「習慣は何よりも感覚を鈍らせる」というセリフが今読んでいる本に引用されていたのだが、習慣は何よりも感覚を整える、とも言えるのではなかろうか。

私はなかなかルーティーンが組めない。昨日と違って今日できることをやっていくしかない。そう、毎朝、今日できることを見つけて優先順位をつけるのが私の小さな習慣だ。

それでも、3月に入ってだいぶ出来ることが増えてきた。嬉しいな。そんな大したことでは全然ないのだけれど、できるとやっぱり「良かった」って思う。

惰性でできるようになるまで回復できたらいいな。だんだん暖かくなるように、少しずつ少しずつ。

体調が良い日が段々増えているのは間違いないのだから、後は無理してまた寝込まないようにしようと思う。



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パンクな話に元気をもらい、そしてびびる

物わかりのいい子、家族の調整役、それが私の役まわりだった。だから、ときどき、盛大におもちゃ屋で駄々をこねる兄や、私をひっぱりまわして何軒もショップをまわり自分が納得するまで絶対服を買おうとしない妹の、バイタリティあふれる自己主張がまぶしかった。


栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』は単なる評伝ではなく、過激でパンクな伊藤野枝賛歌だ。伊藤野枝は「大正時代のアナキストであり、ウーマンリブの元祖ともいわれている思想家だが、1923年9月、関東大震災のどさくさにまぎれて、恋人の大杉栄、おいっ子の橘宗一とともに憲兵隊の手にかかって殺されてしまった」女性である。

読み始めたとき、岩波書店だし、政治学者が書いた本だと聞いていたので、すごく固い本じゃないかと思っていたが、もう全然ちがった。荒削りな文章とパンキッシュな言葉の海だ。

ちょっと目次から拾ってみると、こんな感じである。「もはやジェンダーはない、あるのはセックスそれだけだ」「恋愛は不純じゃない、結婚のほうが不純なんだ」「青踏社の庭にウンコをばら撒く」「もっと本気で、もっと死ぬ気でハチャメチャなことをかいて、かいてかきまくれ」

これだけで、もうお腹いっぱい勘弁してとなりそうだったけれど、がんばって読み進んでみた。パンクな文体に慣れたら、それにつれてどんどん面白くなっていき、そしてびびりまくる私。

古い家制度に立脚した結婚を奴隷制度だと喝破し、親戚に決められた結婚をふり切り、好きな男のいる東京へ突っ走る野枝。そんな嘘臭い道徳なんかくそ食らえ(失敬!)なのである。

野枝さんの迫力についていくのがやっとだ。あの時代、恋愛に純粋に向き合い、とことん自分の気持ちに正直に生きることは、本当に物凄いバッシングにさらされる。けれど、野枝さんはそんなのお構いなしなのだ。離婚するときに散々迷惑をかけた実家や親戚にも、妊娠したときにはしっかり頼る。そのあっけらかんとした図太さは、「困った人を助けるのはあたりまえ」という信念から生まれている。

そんな野枝さんを絶賛し応援し続ける著者は、アナキズム研究家であるとともに、結婚制度反対、いかなる形の恋愛も自由だと主張してやまない。だから、辻潤と結婚している野枝を口説こうとする大杉栄が、同棲している女性からこっぴどく叱られてしょげていると「どんまい」と励ます。

なんだか、とめどもなく人間的なのである。困っている大杉を野枝が助け、その野枝をまた周りがたすける。その循環。

アナキズムの理想は、どこかとおい未来にあるんじゃない。ありふれた生の無償性。人が人を支配したりせずに、たすけあって生きていくこと。それはいまここで、どこでもやっていることだ。

お金がなくちゃ何もできないとう人は、裏を返せば人を信頼していないということになるわけか。なるほど、アナキズムって人への限りない信頼感に裏打ちされているものなのかな。


とまれ、道徳や正義を振りかざして「弱いものがより弱い者をたたく」昨今の風潮や、私の特にダメな部分(空気を読みすぎるところ)を思いっきり意識化してくれた。
アナーキストたちの過激さにびびりながら読み終わったのだけれど、久しぶりに頭をスコーンとやってくれる本だった。

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝



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うさぎさんに会いに

今日はお友だちが「うさフェスタ」に連れていってくれました。可愛いうさぎさんグッズがいっぱいあってテンションあがりました。


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うさぎさんを連れている人もたくさん。私のとこのうさぎさんは、もうお月さまに帰ってしまったので、うらやましい……。


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卓上カレンダーをちゃぶ台の下にひっぱりこんで破壊してるところ。いたずらっ子だったなぁ。


さ、淋しい。でも、ぽっかり空いた胸の穴のなかにしっかり居てくれるのでいいんだーい。


色々悩んだあげく、バッグチャームと缶バッジを買いました。


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きらきらうさぎさんのバッグチャーム


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凛々しいうさぎさんの缶バッジ




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反応するところも感動もこんなに違っちゃう

いつ読んでも限りなく切なくなる物語がある。J.D.サリンジャーライ麦畑でつかまえて』もその一つだ。16歳のホールデン・コールフィールドと妹フィービーの会話のところで、いつもじーんとなってしまう。ホールデンが将来なりたいものについて語るシーン。

だけど村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では、何故かじーんが来なかった。何が違うんだろう。単に翻訳の違いなんだろうか。

なんというか、野崎孝訳のホールデンのイノセントさが村上訳にはあまり感じられず、どちらかというと少しわがままな良家のお坊っちゃん的要素が加わってしまって、野崎訳で感じた反抗心とか繊細な反発みたいなニュアンスとリズム感が欠落しているようなのである。

自分の内面が変化したのかもしれないが、こうもきれいさっぱり感動がないとポカンとしてしまう。ちょっとこれは、あまりにとっかかりがなくて、自分を見つめ直すまでいかないかなぁ。感性が年老いたのだろうか。

村上訳は読み易い。読む順番が違ったらまた感動も異なるだろうけど、野崎訳のドライブ感で書かれた『ライ麦畑でつかまえて』でやられちゃった体験を持つ私には、やっぱり村上訳は違和感があって、今後もし読み返すとしたら、正直に言って野崎訳かな。

ただ、ホールデンが慕うミスタ・アントリーニのセリフには、村上テイストがよく合っていたように思う。

「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通ではない種類の落下だと僕は思うんだ。恐ろしい種類の落下だと。落ちていく人は、自分が底を打つのを感じることも、その音を聞くことも許されない。ただただ落ち続けるだけなんだ。そういう一連の状況は、人がその人生のある時期において何かを探し求めているにもかかわらず、まわりの環境が彼にそれを提供することができないという場合にもたらされる。あるいは、まわりの環境は自分にそれを提供することができないと本人が考えたような場合にね。それで人は探し求めることをやめてしまう。つまり、実際に探索を始める前に、あきらめて放り出しちゃうんだ。私の言っていることはわかるかい?」

まぁ、とても村上春樹的な言いまわしなので、好みは分かれるところだと思う。


野崎訳

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて

ライ麦畑でつかまえて


村上訳

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)


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あるカウンセラーのひとりごと

僕の名まえは兎田ぴょん。職業はカウンセラーだ。

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ウサギの話を聞くのが仕事。恋の悩みや仕事の愚痴や家族の悪口、それから「死にたい」まで、何でも聞く。時には殴られるんじゃないかというくらい怒ってるウサギもいる。

でも、僕はそんなウサギたちが嫌いではない。どんな話にもそのウサギなりの真実と切実さがあって、僕はそのことで毎回新たな気づきをもらっている。

もちろん、「死にたい」と言われたときはとても困る。僕は正直に「こまりましたね」と言って黙りこむ。「死にたい」はとても固い壁に囲まれていて、僕としては時間をかけてコツコツと少しずつ壁を削っていくしかない。

とても厚い壁のときは、小さい空気穴しか作れないこともある。もちろん、壁の中にいるウサギにも協力してもらわなきゃ何事も進まない。

まずは、自分が暗い壁の中にいることを感じてもらう。そして、外に出れば吹きすさぶ風もあるけれど、たまには太陽が顔を出すことを思い出してもらって、「(また壁の中に入ってもいいけど)とりあえず外でひと息つきませんか」と声をかけてみる。

ほんのちょっとだけ荷降ろしすることしかできないけれど、出入口ができれば壁は安全な居場所に劇的に変化する。そこで、充分休んで欲しいなと思う。

僕に力があるわけじゃない。ウサギ自身が持っている本来の脚力があるのだ。僕が耳かき程度しか壁を削れなくても、ウサギは今まで必死でもがいていた先を、壁に向け直してホリホリしてくれる。

僕がカウンセラーを続けていられるのは、ウサギの力を信じているからなんだと思う。だから、僕の目指すものは「カウンセリングなんて何の役にもたたない」と言われることだ。カウンセラーができるだけ目だたない存在でいられれば一番いいと思う。

「先生のおかげです」なんて言われるのは真っ平ごめんだし、そういうのはウサギの本当の逞しさが引き出せてないってことだから。だからここだけの話、こそっと言うんだけど「私に任せなさい」なんていうカウンセラーはインチキだって僕はおもっている。



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作家・中島らもさんと

過去、数年間毎日夜になるとお酒を飲んでいたことがある。ひどく落ち込んでいて、つい頼ってしまっていた。お酒というのは毎日飲んでいると、もうあまり酔わないというか、酔っている感覚が鈍くなって、ウィスキーをストレートでぐいぐいいくようになる。

あるとき、思い立って毎日飲むのを止めた。もういいや、と思ったのだ。本来はあまりアルコールに強くないし、冷めるときに節々が痛くなったりする。



アルコールといえば、私の好きな作家に中島らもさんという人がいる。朝日新聞に連載してた『明るい悩み相談室』、アルコール依存症の体験を元にした『今夜すべてのバーで』、直木賞候補になった『ガタラの豚』、その他エッセイ多数、脚本に落語……本当に楽しませてもらった。

らもさんは、躁鬱病でもあって、薬の副作用でふらふらしたり目が見えにくくなったりしていた。それでも、らもさんはそれもやっぱりネタにしていた。

だから、らもさんが飲んだ帰り道、階段を踏み外して亡くなってしまったというニュースを聞いたとき、物凄くあり得そうだけど、でもきっとらもさんの冗談だと思った。

「死んだらどうなるかと思てぇ、やってみてん」と照れ笑いを浮かべながら、復活トークライブでもやるんじゃないかと本気で思っていた。亡くなってから、もう、今年の7月で13年になるんだなぁ。

らもさんはいわゆる違法ドラッグなんかを自分で試してみて、その効果や弊害を本に書いたりしていた(例えば『アマニタ・パンセリナ』)。その流れで捕まってしまったこともある(その顛末は『牢屋でやせるダイエット』に詳しい)。

一度、新宿のトークライブに行ったときに、楽屋に引き上げるらもさんとすれ違ったので、「マリ○ナって鬱に効くんですか?」って聞いたら、いつものゆるゆるな感じで「効くよ~」と言っていた。今となっては、もう笑い話の懐かしい思い出だ。


ガダラの豚 I (集英社文庫)

ガダラの豚 I (集英社文庫)

ガダラの豚 II (集英社文庫)

ガダラの豚 II (集英社文庫)

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

牢屋でやせるダイエット

牢屋でやせるダイエット

牢屋でやせるダイエット (青春文庫)

牢屋でやせるダイエット (青春文庫)


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たまにはこういうこともある。

詩人というと、通常と異なる人種のように思われるだろうか。私には、詩を書く友人が複数いる。詩のなかでは激しく逸脱するけれど、普段の会話はとりたてて変わったところはない。当たり前に挨拶するし、冗談も言い合う。

ある程度の繊細さは持っているだろう。言葉に対する感覚も鋭敏だと思う。ただ私は、人間はみな、どこか狂っていると思っているからか、詩人が際立って変り者だとか無頼とは思わないのだ。


ねじめ正一荒地の恋』に出てくる田村隆一と、その妻と恋に落ちる北村太郎は実在した荒地派の詩人である(ちなみに著者も現代詩人)。物語の始まりでは、二人は五十代前半。

田村は妻・明子と北村の関係を知りながら、北村には面と向かって何も言わない。家に北村を呼んで明子と三人で仲良く飲んだりする。北村の方も呼ばれれば行くし、特に謝るわけではない。かといって結婚制度を否定するような信念があるわけでもない。登場人物のなかで、一番素直に感情表現できているのは、何の躊躇もなく浮気を打ち明けられて逆上する北村の妻である。

北村はそんな状況のなか、妻をなだめるため添い寝して頭を撫でながら寝かしつけたりする。その一方、今までになく詩をたくさん書く。北村がそれまであまり詩が書けなかったのは、まっとうな家族との暮らしがあったためだという意味の記述があって、私は少しあきれる。

前半はそんなふうに、ところどころ引っかかって物語世界に没入できなかった。

なんというか、詩人なんだから感じたまま突っ走って当たり前だ、仕方がないといわんばかりに、北村の田村に対する後ろめたさも(あるいは刺されても仕方ないという覚悟も)、家族を捨てるときのためらいもほとんど描かれておらず、事実の羅列に終始していて、物語の奥行きが感じられない。

後半になると北村の心象風景が徐々に結ばれてくるが、田村に関しては本人が登場する場面が全くない。そして、相変わらず、さしたる葛藤もなく別れたり新たな恋に落ちたりしてるという印象が拭えない。人を好きになるという熱い情念とか狂おしいほどの苦悩が今一つ伝わってこないのである。

また時を経て読んだなら、違う感じ方もできるだろうか。私の虫の居所でも悪かったのかなぁ。

小説を書くというのは大変なご苦労があると思うので、本当に申し訳なく思う。ねじめ正一さん、ごめんなさい。


荒地の恋 (文春文庫)

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この小説は、豊川悦司主演でドラマ化もされているので、ドラマの脚本や演出でどう変わっているのか、見てみたい気もする。

連続ドラマW 荒地の恋 [DVD]

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