もやもやの意味がわからない
何だか感情がもつれていると感じているけれど、その正体がわからなかった。それが長引くと、不調になって家に閉じこもってしまう。家は安全で安心だから。
とはいえ、もつれをそのまま放置するわけにもいかず、自分に聞いてみる。
🐰「最近やたらとダイエットとか言って、悩みから目をそらしてるけど、本当はどう思ってるの?」
どうなのかなぁ。辞めるかどうか。本当の気持ちがわからないんだ。しんどいなぁって思うときと、小さいけどやりがいがあるときとあるから。
🐰「本当の気持ちがわからないときは、気持ちに蓋をしていることがあるよ。その蓋を押さえているのは、こだわりだったり、恐れだったり、不安だったりするけれど、そういう感情をいったん表面に出して自覚しないと、すっきりはしないんじゃないかな。」
不安や恐れかなぁ。
🐰「どうして不安なの?」
自分に自信がなくて、自信をつけるために何かする気持ちになれないことかな。モチベーションがないの。ただ、ずるずると後ずさりしてる。
ダイエットは単純だから、楽なの。成果も分かりやすいし。
🐰「複雑だと思ってることの多くは、自分が複雑にしてるだけなんだよ。イカ墨の煙幕みたいに、本当の自分の気持ちを知りたくないから、複雑化してるの。」
本当の気持ちが実はわかっていて、それをぼやかしているのかぁ。そうかなぁ。もう少しだけがんばろって続けていて、下を向いてとぼとぼ歩いてる感じで、前が見えなくて。
何やってんだろ。私、「やりたくないことをやってる」のかなぁ。もう辞めた方がいいのかなぁ。
🐰「燃えつき症候群かもね」
バーンアウトってやつ?この無力感はそうかもしれない。ただ、不安だったことをひとつ正直に話せたんだよ。そしたらね、助っ人が現れてくれたんだ。とても気が楽になったよ。
🐰「それは良かったね。こんなこと言っちゃいけないんじゃないか、とか思ってたりして不安なことってあんまり言えないものだから、言えたのは本当に良かったと思うよー」
ありがとう。大変なこともあるけど、やりがいはあるもの。私は背伸びし過ぎてたのかもしれないなぁ。理想ばかりで実体が伴ってなかったように思う。等身大の自分でいるしかないよねぇ。
🐰「そうそう」
ありがとう。もう少しやってみるよ。
激しい感情の取り扱い
同じ体験をしても、すんなりと受け流せる人がいる一方、強く激しい感情に囚われてしまう人がいる。もちろん、私は後者だ。
困っている。
誰かが傷つけられたりすると、もうダメ。その行為がどうしても許せない気持ちが持続して、その人自体と会いたくなくなってしまう。うぅ、大人なのに。
悪感情は気持ちが良いものではない。その人に会えば、余計なことを言ってしまい、後で後悔するのはわかっているから、会わない方がトラブル回避になると思っている。
そうすると、その人が来るところには近寄りたくないので、行動半径が狭まり、会いたい人にも会えなくなる。で、困る。
それ以前に、強く激しい感情のために眠れなくなったり、頭がぐるぐる状態になるので、激しく疲れてしまう。
今のところ、解決法で即効性があるのは、抗不安剤を服用することだ。ぼーっとして、とりあえず頭が休まる。効かない人もいると思うが私にはよく効いてくれるので助かっている。
でも、本当は薬以外の方法で感情の炎を抑えられたらいいのになぁと思っている。例えば手仕事とかヨガとか良いかもと思うのだが、激しい感情の嵐のせいで疲れているので、とても始める余裕がない。少しおさまってきた頃ならできるかもしれないなぁ。
感情に対抗するのは、やっぱり理性なのだから、理詰めで自分を諭せばいいのかというと、これが上手くいったためしがない。
やっぱり一回は毒を思いっきり吐かないと、ダメで、要はどこでどうやって排出するかなんだよねぇ。
人に話す、壺に話す、ウサギに話す、と色々あると思うのだけれど、私の場合、やはりウサギに話すのが一番良いのかも知れない。聞き耳をちゃんと立てて、大きな耳で聞いてくれるもの。ウサギは秘密を守ってくれるし。
うん。今度試してみようっと。
あるカウンセラーのひとりごと
僕の名まえは兎田ぴょん。職業はカウンセラーだ。
ウサギの話を聞くのが仕事。恋の悩みや仕事の愚痴や家族の悪口、それから「死にたい」まで、何でも聞く。時には殴られるんじゃないかというくらい怒ってるウサギもいる。
でも、僕はそんなウサギたちが嫌いではない。どんな話にもそのウサギなりの真実と切実さがあって、僕はそのことで毎回新たな気づきをもらっている。
もちろん、「死にたい」と言われたときはとても困る。僕は正直に「こまりましたね」と言って黙りこむ。「死にたい」はとても固い壁に囲まれていて、僕としては時間をかけてコツコツと少しずつ壁を削っていくしかない。
とても厚い壁のときは、小さい空気穴しか作れないこともある。もちろん、壁の中にいるウサギにも協力してもらわなきゃ何事も進まない。
まずは、自分が暗い壁の中にいることを感じてもらう。そして、外に出れば吹きすさぶ風もあるけれど、たまには太陽が顔を出すことを思い出してもらって、「(また壁の中に入ってもいいけど)とりあえず外でひと息つきませんか」と声をかけてみる。
ほんのちょっとだけ荷降ろしすることしかできないけれど、出入口ができれば壁は安全な居場所に劇的に変化する。そこで、充分休んで欲しいなと思う。
僕に力があるわけじゃない。ウサギ自身が持っている本来の脚力があるのだ。僕が耳かき程度しか壁を削れなくても、ウサギは今まで必死でもがいていた先を、壁に向け直してホリホリしてくれる。
僕がカウンセラーを続けていられるのは、ウサギの力を信じているからなんだと思う。だから、僕の目指すものは「カウンセリングなんて何の役にもたたない」と言われることだ。カウンセラーができるだけ目だたない存在でいられれば一番いいと思う。
「先生のおかげです」なんて言われるのは真っ平ごめんだし、そういうのはウサギの本当の逞しさが引き出せてないってことだから。だからここだけの話、こそっと言うんだけど「私に任せなさい」なんていうカウンセラーはインチキだって僕はおもっている。
ダメさを許す人間はダメか
ダメさを責める人がいる。説教したりとか怒ったりとか。私の苦手なタイプだ。そういう一方通行なのより、私はダメさ加減を笑い合える人間関係が好きだ。ダメと共に生きていくのも、ダメの辛さをわかっているのも本人だからだ。
たまには、ダメをこじらせるときがある。必要以上に自分を責めてしまったり、自分を無価値な人間だと蔑んだりしてしまうこともある。
でも、克服しようのないダメさがあることを私は知っている。私は、私のダメさを抱えて、あっちこっちにぶつかりながら生きている。そして、しょうがないなと笑う。
私のダメさは、例えば悲観的将来没落妄想にとらわれているところ。ちょっとした悪いことがあっても、すぐにこのままじゃ、あーすることもこーすることもできないし、何もかもダメになってしまう。うわーん状態になる。
 ̄(=∵=) ̄《そのことは今一回しか起こってないのに、この先ずっと続くって思っちゃうんだね。》
そうなんだ。良くないことって、その都度違う場面や異なる状況で起きてることなのに、思い詰めちゃう。
 ̄(=∵=) ̄《悪いコトの内容も限定して受け止めないとね。今日は大好きなオオバコはなかったけど、タンポポはあったとかさ、悪いコトばかりじゃないし、今度はオオバコのありかを友だちに聞いておいてもいいし、そもそもオオバコが生えてないのは私のせいじゃなーい!》
そうか。自分で対処できることはすればいいんだよね。それ以外は自分の力では防ぎようがないことだから、自分を責め立てちゃいけない。
でもでも、頭ではわかっても、またわあーんてなっちゃうかもー。
 ̄(=∵=) ̄《ダメだ、こりゃ》
プレゼントーより良い依存関係の模索
うさぎさんの砂時計をもらった。前から砂時計が欲しかったのでとても嬉しい。しかも、大好きなうさぎさんがいて、とてもかわいい。砂時計はお茶をいれるときに使う予定です。
母からも荷物が届いた。暖かそうなマフラーとブランケット、そして大根ハチミツ飴。お母さんらしいな。この前電話であまり元気よく振る舞えなくて「調子悪いの?」って気づかれちゃったからなぁ。心配かけてしまったみたい。
親に見栄をはることはないのだけれど、他に何もできないから、心配だけはかけたくないという思いが強い。
ふと思い出したのだけど、脳性マヒで電動車椅子を使っている小児科医・熊谷さんが「依存先は複数あった方がいい」と書いていた。依存というとあまり響きは良くないかもしれないけれど、人は全く他の人に頼らないで生きていくことはできない。だから、頼る先を一人に集中するのではなく、分散することで自分も相手も負担が少なくて済むという話。
例えば、親にだけ頼っていたら、親も大変だけど自分も辛く切なくなってしまう。しかも、親がいなくなったら、その先どうしたらいいのか途方にくれるだろう。だから、熊谷さんは友人やヘルパーさんや職場の仲間に少しずつ頼ることで生活している。
そういえば、日本では「人に迷惑をかけるな」って言われるけれど、インドでは「あなたは人に迷惑をかけながら生きるのだから、人にも優しくしなさい」と教わるのだそうだ。何だかとても穏やかな雰囲気が漂ってきていいなと思う。「迷惑をかける」でなく、「優しいプレゼントをもらう」って感じで。