幸福って何?
『幸福な王子』は子どものころ絵本では読んだことがあったけれど、文字だけで読むのは初めてだ(『幸福の王子』という訳もありますね)。今回、読み返したのは、一つには作者のオスカー・ワイルドの厳しい生涯を知ってからだと、また別の感慨があるのかなぁと思ったから。それから、実はこの物語があまりにも悲しくて小さい頃の私は絵本を再び手に取ることができなかったので、大人になった今、冷静に読み返せるかどうか試したかったのだ。
正直にいうと、もう切なくて途中で読むのを止めようかと思った。けど、頭がじんじんしてうーうー言いながら最後まで読んだ。そして、驚愕したのである。結末が記憶と違う!
私の遠い記憶では、王子は美しい宝石も金色の輝きもなくし、燕は死んでしまい、もう神も仏もないような救いのない最後だったんである。しかし、神はちゃんといた。救いはあったのだ。げげげ!幼い頃の私よ、ここんとこで良かったぁと思わなかったのかい?
もしかして、途中で読むのを止めてしまったのだろうか。それは大いにあり得るんだけど、どちらかというと神の印象がものすごく薄かったんじゃないだろうか。フランダースの犬もそうだけど、天国に行けたからって何だっつーの。この世での辛さがそれで報われるのかっていう気持ちがどこかにあったんじゃないかな。
きっと王子の幸福なんてわからなかったんだろう。今だってわからない。優しい燕と王子の身を削る施しに感嘆し、それに対して施しを受けた側のあまりの無反応さ加減(どころか王子を引き倒して溶鉱炉に放り込む!)にため息をつく。施しってそういうものだという意見もあるだろうけど。
幸福って王子のことなのかな、それとも施しを受けた民のことなのかな。でもな、と大人の私は思う。民は一時的には潤ったのかもしれないけど、また貧しくなり、飢えていくのだろう。だって人間はちっともそれを改善しようとしていないんだもの。
王子と燕は一つひとつの行為で束の間の幸福を味わっていたのだろうか。それも違うような気がする。きっと、やってもやっても無くならない貧しさや飢えに目が眩む思いだっただろう。そしてもう、大事な仲間の燕を亡くし、自分にはもう何もできないと知ったとき王子の心臓が文字通り張り裂ける。うぅ、そう考えるとやっぱり救いのない物語だなぁ。
そういえば、こんな話を聞いたことがある。川を流れてくる赤ん坊を必死に助けている人々がいる。もう一方、川上で赤ん坊を川に投げ込んでる人々がいる。川下の人々は本当は川上に行って投げ込むのを止めさせれば良いのだけれど、川下の人々には遠い川上まで行く余裕がない。
川上に行けずとも赤ん坊は助けなきゃいけない。だから、幸福な王子と燕のしたことが無意味だとは思わない。
人間の幸福には、快楽や歓喜みたいなものもあるけれど、人との信頼関係とか自分がここにいていいんだって思える気持ちがとても大切なように思う。王子は人々を助けることに生き甲斐を感じ、目が見えなくなってからは仲間の燕を信頼していたんだろうな。
- 作者: オスカーワイルド,西村孝次
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こちらは、新訳。
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