kai8787の日記

編み物と散歩と読書とうさぎさん ̄(=∵=) ̄

時・死・愛との会話

大切な誰かを喪ったとき、時間が止まり、死を否定し、愛を見失う。弔うという行為は人がその状態から回復するための祈りだ。

ウィル・スミス主演『素晴らしきかな、人生』では、主人公の喪失感の深さが丹念に描かれていく。いつまでも悲しみから抜け出せず茫然自失な2年が過ぎた頃、会社の経営に行き詰まった同僚たちはあるユニークな解決案を思い立つ。

ウィル・スミスのシリアスな演技と、ラストに近づくにつれミステリアスになる展開に惹かれた。時・愛・死との会話にもはっとさせられる。

人が生きるという時間の流れのなかで、深い愛情を感じる瞬間が数度ある。それは苦難の連続のなかで、ふと訪れるギフトなのだ。私は寿命というものを神様が「もういいよ」と肩を叩いてくれる印だと考えるようになった。死もまたギフトなのだと思う。だから、自ら死ぬことをたぶん選ばないだろう。自信はないけれど、なんとなくそう感じる。

まぁだけど、私は苦難に対してすごく痛がりなので、いつもすれすれなところまで行ってしまう。同じくらいの問題を抱えていても、ストレスに強いというか弾力のある生き方ができる人が身近にいて、とても尊敬している。私もそんなふうに生きられたらな、と思っているけれど、このしょーもなく弱い自分を受け入れて何とかかんとかやっていくしかないのかもしれない。私は私でしかないし、もしもあるとしたら、私の良い面も、しょーもないところから出来あがっているのだろうから。



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ふさぐとふさぎこむ

自分の中に魔物がいて、人から言われた嫌なことをどんどんどんどん拡大していくときがある。友だちが「なんでそんなに自分を責めるの?」って聞く。なんでだろう?性格?「相手のこと『あほ』っとか『こういうこというやな奴』とか思ってほっとけばいいのに」

私がいけなかったのかな、反省しなきゃならないところあるかなって思うのは悪いことじゃない。だけど、友だちは私のはやり過ぎだと言う。ずっとトゲみたいに刺さってじくじく痛んで、何をしててもひっかかっている。だから、きっと友だちを心配なんだろう。

切り替えや放っておくことをうまくできるようになれば、もう少し生き易くなるのにな。

魔物は大人しくしてくれない。どうやったら、静まってくれるのかなぁって色々試してみた。好きなものを食べた。公園に日向ぼっこに行った。コミカルな本を手に取って読んだ。好きな人たちに囲まれて和んでいるときのことを想像してみた。お酒も少し飲んでみた。

でもまだダメ。

そんなとき皆どうしてるんだろう?

ただ、昨日より少し軽くなったような気がする。なんだかね、傷つくのは自分の皮膚が弱いせいだって思ったの。皮膚が弱いのは仕方がないことなんだよね。強くて跳ね返す弾力のある皮膚に生まれたかったけど、そうじゃなかっただけなんだ。

そんで、ときどき、その弱い皮膚がもっと調子悪くて破れやすくなるときがあって、いつも以上に「がーん」てなるときがあって、それが今なんじゃないかって思った。だから、友だちが自分を責めるのやめなっていうんだね、きっと。

魔物が暴れているのに、自分じゃ気づけなかった。それでも、辛いって言える友だちがいて良かった。正直に辛いって言えて良かった。

弱音って、本当に小さな傷つきやすい声だから、他の人には聞き取りにくいし、聞く方は疲れるだろうね。聞いてくれて(読んでくれて)ありがとう。



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表現の自由とは?中立とは?無関心とは?

最近見逃してしまって残念に思っている映画に「否定と肯定」がある。が、私は映画館が苦手なので、映画に携わっている方々には誠に申し訳ないが、作品を映画館ではほとんど見られない。

という訳で、原作デボラ・・リップシュタット『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』を手に取った。

ホロコースト否定論者のアーヴィングが名誉を毀損されたとして、イギリスでリップシュタットと版元のペンギンブックスを訴える。これはドキュメンタリー。イギリスでは、名誉を毀損したとされる側に立証責任がある。リップシュタットは多くの法律家や歴史家、ユダヤ社会の人々の力を借りて、アーヴィングの間違いを一つずつただしていく。

弁護士は裁判の間沈黙を守るようリップシュタットに指示する。敏腕弁護士の法廷での立ち居ふるまい(アーヴィングの逃げ口上をどこまで追求するか)、裁判官の冷静さ、そして一番胸を打つのは、裁判を見守るホロコーストの生存者の眼差しだ。ときに感情を揺さぶられるリップシュタットも、その眼差しによって落着きを取り戻し、勇気を得る。

アーヴィングはそんな生存者たちに向かい「その入墨でいままでいくら稼いだんです?」などと暴言を吐く。どこかで似たようなセリフを聞いたように思う。

負の歴史をごまかさずに向き合うことの大切さ、二度と悲劇が起こらないように引き継ぐことの大変さを考えずにはいられなかった。

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

社会の断片として

社会学というと、ちょっと、とらえどころがなく、広範囲な学問という印象がある。研究の仕方も色々ありそうだ。ただ、以前から面白そうだなとは思っていた。

岸政彦『断片的なものの社会学』は、様々なエッセイで、多角的に社会の有り様を呈示してくれる。

社会学を研究するやりかたはいろいろあるが、私は、ある歴史的なできごとを体験した当事者個人の生活史の語りをひとりずつ聞き取るスタイルで調査をしている。

本書では、著者が社会調査しながら考えてきた事柄を丁寧に書き起こしていく。

こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。

この社会学への眼差しの確かさが安心感を与えてくれる。分析することと、決めつけることは紙一重なのだ。

社会のひとひらとして生きていくしかない私が、この本を通して、岸政彦という社会学者の暮らしや思いの欠片を読み、共感したり違和感を持ったりすることにどんな意味があるんだろうか。

意味などないかもしれないけれど、読書というのは、私の狭い世界をほんの少し拡げてくれる。そして、この本は内向していた気持ちを外に向けてくれた気がする。

なにかに傷ついたとき、なにかに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。時には手が出てしまうこともある。
しかし、笑うこともできる。
辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。

私は、どうしようもなく悲しい笑いを知っている。自由というものを手放さざるを得ないときの寂しい笑い。それでも、それは、非常に人間的な笑いとして立ち上がってくる。

少し思い出して怖くなってしまった。あはは。アホな私。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

感情の時間差攻撃〰💣

何か違和感を感じてもスルーすることに慣らされてきた私は、自分の感情に気づくのが遅いときがある。悲しみとか怒りとかが時間差で来る。

あーあの時、私、悲しかったんだって、気づく。割りと深く傷ついていたりして、じくじく長引いたりたりする。

いわゆる感情的な人が羨ましく思うことがある。だだっ子になれなかった、物わかりの良いおとなしい子だった私。でもね、実はずっと思い続けていたんだよ。「あの白いひらひらのワンピースが欲しいな」って。

もしかして、感情的なのは私の方かもしれない。慾望を持ち続けていたんだものね。

今、何か違和感を覚えたら、少し自分の感情に向き合ってみることにした。「コンコン、今、おかしいなって思ったよね。それはなあに?」

一方で「まっいいか」と思える力も大切だなぁと思う。ただ自分に嘘をつくのではなく、感情の炎をしっかり感じてから理性のシャワーを浴びる。

当面、それでやってみようと思う。小さな違和感をためないように。

粗い言葉のなかをとぼとぼ生きる

ストレスがかかったり疲れが閾値を越えると身体が痺れて力がうまく伝わらなくなってしまう。閾値がこのところ下がり気味で、すぐにふるふるしてしまうので困っている。

精神的なものと、病気とは言えないくらいの神経回路の弱さが重なって起きているんだろうとドクターからは言われている。

ともかく、ゆっくり動いて早めに休むようにしないといけない。めんどくさいけど、この自分とつき合っていかないと。


怒鳴り声や人をけなしたり蔑んだりする言葉も苦手だ。つい最近もそういう場面に出くわして背骨がずんと重くなって、静かなところで横たわらないといけなくなった。

心がすくんでいる私に、友だちが優しい言葉をかけてくれた。ただ「大好きだよ」と言ってくれたのだ。そしたら身体がぽかぽかになってほどけていった。

私の周りには心が穏やかで気持ちの優しい人がいっぱいいるんだ。そう思ったら、何だか勇気がわいてきた。嫌な言葉をぶつけてくる人がたまーにいるけど、マイナス感情に引きずられないようにしよう。

落ち込みそうになったら、日常を大切にして丁寧に生きよう。暮らしで私を包んで小さな幸せを噛みしめよう。

言葉で傷つけられても、言葉で救われる。人間て何てやっかいで面白い生きものなんだろう。

ふつう?

ある人にとって普通のことでも別の人にとっては普通ではないことがある。例えば、メニューひとつにしたって、カレーに味噌汁をつける人だっているし、毎日同じメニューじゃなきゃ嫌な人だっている。

色んな人がいて面白いなと思うか、「変な奴だ」と遠ざけるか。

違いを楽しめる方が何だか心に余裕があって豊かなように思う。それに「これが普通」と決めつけることは、マイノリティにとっては排除につながる。

「あなたの年なら普通子どもいるわよね」と言われたら、妊娠できない事情のある人は酷く傷つくだろう。

そう考えると「普通」というのは恐い言葉だ。自分の中の「普通」は基本的に井の中の蛙だと思っておくようにしよう。