kai8787の日記

編み物と散歩と読書とダイエット

ふるえてるときに

少し元気だった頃の話をしよう。

何人か新しい友人ができた。ちょっとした悩み事や世の中の理不尽さを安心して話し合えるくらいの気の置けない人たちだ。

定期的に会う機会があるので、私はあまりそのありがたみを意識していなかった。日常の当たり前の出来事が実に大切なものであることに気づかず通り過ぎてしまうことはよくある。

私の元気は彼女らのお陰だった。さりげない会話や共有できる関心事、ときには真剣に語り合うことで、私は日々の辛さをなんとか乗り越えて、はりあいを得ていた。

 

しかし、私の症状が悪化して家から出られなくなり、ふさぎこむ日々を過ごすようになり、彼女らと会うことは途絶えた。私から「会いに来て」と言ったら、きっと来てくれただろうけれど、彼女たちはあえて押しかけてくることはしなかった。

 

お互いに踏み込みすぎないくらいの距離感を持っていたのだ。

 

それを友だちがいがないと思う人もいると思う。ただ、私はほっといてくれる彼女たちに感謝こそすれ、寂しいと感じたことはない。

 

最近、読んだ住野よる『君の膵臓をたべたい』は、余命いくばくもないが見た目は元気で明るい女の子とクラスメイトの男の子の物語だ。男の子はふとしたことから彼女の余命を知って【秘密を知ってるクラスメイト】くんになる。

 

彼はその重荷を飄々とかつぐ。素知らぬ顔で彼女とありきたりな高校生の友だちづきあいを続ける。それを、少しクール過ぎると感じる人は多いと思う。けれど私はそんな彼が彼女の抱える恐怖や不安を忘れさせてくれる、かけがえのない存在だと感じた。

 

私にとっての彼女たちと同じく、遠ざかるのではなく、じっとそこにいて、そして声をかければ応えてくれるくらいのさりげなさで付き合ってくれる【仲良し】くん。

 

変わらない日常の大切さがじわじわと感じられる。そう。人生のなかでどうしようもなくショックなことが起きたとき、人は普段の何気ないささいな事を積み重ねることでやり過ごすことができたりする。お皿を洗って元の場所に置くこと。ご飯を食べるときは汁物からという癖。起きたてに手首をぐるぐる回すこと。

 

その一つ一つがふるえている心を支えてくれる大切なものなのだとつくづく思う。そして、主人公の男の子もまたふるえていた。お互いに手を差しのべ合って変わらない日常のなかで、確かな何かを手にしていく。

 

 

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

 

 

頭をするする、する。

私にもいくつか、こうなったらいいなぁと漠然と思っていることがあって、できれば少しずつでも実現に向けてとぼとぼ歩いていきたい。

毎日がふっと流れて終わってしまうのはちょっと寂しい。でも、いったい何をどうやって、どこから手をつけていけばいいのか、頭がごちゃごちゃしてしまって前に進むことができない。

夢は夢のままの方が幸せなこともある。多分、私の夢もそうで、現実問題として私は一人の空間が好きなので、夢の中で人とワイワイやっているとこを空想してる方が良いような気がする。

 

でも、リアルな人肌のワイワイにちょっぴり足を突っ込んでみてもいいんじゃないかなぁ。ダメだったらまた巣穴に戻って、「ダメだったよー。ここがいいよー」と再確認すればいいだけじゃないか?

 

というわけで、少し頭をスッキリさせようと思い立ち、phaさんの『人生にゆとりを生み出す 知の整理術』という本を手に取った。

 

著者が何のために書くのかということをわかりやすく説明している。phaさんは有名なブロガーで元ニート。ブログがきっかけで数冊の本を出版している。読むととても素敵な気分になる本ばかりだ。今回も色々ヒントをいただけた。

 

一番印象に残ったのは「僕が何かを書くときは、大体自分の中の何かを終わらせるために書いている」という言葉。

 

書くことで荷下ろししている感覚が確かにあるよなぁと思う。それに書き進めながら、気づくこともよくある。頭の中がある程度整理されてないと、言葉にできないし。

 

今回もこれを書いていて、私の夢までの一歩が少し見えた気がした。のろのろ、ぼやぼやしながら、進んで行けたらいいな。怖がらずにね。

 

 

 

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

 

 

表現の自由とは?中立とは?無関心とは?

最近見逃してしまって残念に思っている映画に「否定と肯定」がある。が、私は映画館が苦手なので、映画に携わっている方々には誠に申し訳ないが、作品を映画館ではほとんど見られない。

という訳で、原作デボラ・・リップシュタット『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』を手に取った。

ホロコースト否定論者のアーヴィングが名誉を毀損されたとして、イギリスでリップシュタットと版元のペンギンブックスを訴える。これはドキュメンタリー。イギリスでは、名誉を毀損したとされる側に立証責任がある。リップシュタットは多くの法律家や歴史家、ユダヤ社会の人々の力を借りて、アーヴィングの間違いを一つずつただしていく。

弁護士は裁判の間沈黙を守るようリップシュタットに指示する。敏腕弁護士の法廷での立ち居ふるまい(アーヴィングの逃げ口上をどこまで追求するか)、裁判官の冷静さ、そして一番胸を打つのは、裁判を見守るホロコーストの生存者の眼差しだ。ときに感情を揺さぶられるリップシュタットも、その眼差しによって落着きを取り戻し、勇気を得る。

アーヴィングはそんな生存者たちに向かい「その入墨でいままでいくら稼いだんです?」などと暴言を吐く。どこかで似たようなセリフを聞いたように思う。

負の歴史をごまかさずに向き合うことの大切さ、二度と悲劇が起こらないように引き継ぐことの大変さを考えずにはいられなかった。

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

社会の断片として

社会学というと、ちょっと、とらえどころがなく、広範囲な学問という印象がある。研究の仕方も色々ありそうだ。ただ、以前から面白そうだなとは思っていた。

岸政彦『断片的なものの社会学』は、様々なエッセイで、多角的に社会の有り様を呈示してくれる。

社会学を研究するやりかたはいろいろあるが、私は、ある歴史的なできごとを体験した当事者個人の生活史の語りをひとりずつ聞き取るスタイルで調査をしている。

本書では、著者が社会調査しながら考えてきた事柄を丁寧に書き起こしていく。

こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。

この社会学への眼差しの確かさが安心感を与えてくれる。分析することと、決めつけることは紙一重なのだ。

社会のひとひらとして生きていくしかない私が、この本を通して、岸政彦という社会学者の暮らしや思いの欠片を読み、共感したり違和感を持ったりすることにどんな意味があるんだろうか。

意味などないかもしれないけれど、読書というのは、私の狭い世界をほんの少し拡げてくれる。そして、この本は内向していた気持ちを外に向けてくれた気がする。

なにかに傷ついたとき、なにかに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。時には手が出てしまうこともある。
しかし、笑うこともできる。
辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。

私は、どうしようもなく悲しい笑いを知っている。自由というものを手放さざるを得ないときの寂しい笑い。それでも、それは、非常に人間的な笑いとして立ち上がってくる。

少し思い出して怖くなってしまった。あはは。アホな私。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

少年の夢と現実とはるかな記憶の残滓

ブログ拝読中の高岡ヨシさんの『五厘クラブ』を読んだ。主人公で語り手の「オレ(タカクラ)」の試練と成長を縦糸に、一緒に遊んでいた少年時代の友だち達との交流を横糸に、織り成される物語。

少年の頃の友情における心の襞が懐かしさを伴って胸に込み上げてくる。タカクラが試練を孤独に受け止め堪える気持ちがひしひしとわかる。助けを求めようと思えば、タカクラには相手がたくさんいるのに、矜恃と尊厳とプライドでがんじがらめになる、その苦しさははかりしれない。

私も幼い頃、暗いどんよりとした穴に落ちかけていた。そっちの方向に行けば、穴に吸い込まれるとわかっていても、足が向かってしまう恐ろしさがあるのを知っている。

たまたま私は偶然が重なって、穴に引きづり込まれることはなかった。タカクラはいったん穴に落ちる。そしてそこで苦しみもがく。必死にもがき続ける。そこに救いがあるのかは、是非本編を読んでみて欲しい。

五厘クラブ

五厘クラブ

エピソードが豊富で一気に読めた。『五厘クラブ』のスピンオフのショートストーリーが読める、高岡ヨシさん (id:yoshitakaoka) のブログもお薦めです。



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久しぶりに本を読み終わりました。

江國香織間宮兄弟』読了。

35歳の明信と32歳の徹信は兄弟でマンション暮しをしている。当然両方とも独身。数々の女性にふられて今は2人それぞれマイペースで生活を楽しんでいる。

「歯磨きもシャンプーも怠らず、心根のやさしい間宮兄弟ではあったが、現に彼らを見知っている女たちの意見を総合すれば、恰好わるい、おたくっぽい、むさくるしい、だいたい兄弟二人で住んでいるのが変、スーパーで夕方の五十円引きを待ち構えて買いそう、そもそも範疇外、ありえない、いい人かもしれないけれど、恋愛関係には絶対にならない、男たちなのだ」

散々な言われようである。奥手の兄とつっ走り気味な弟は恋愛下手なのだ。それでもお互いに好きな女性ができる。今度の恋は上手くいくのか。

間宮兄弟 (小学館文庫)

間宮兄弟 (小学館文庫)

この小説は映画化もされている。明信役が佐々木蔵之介、徹信役が塚地武雄で、共にはまり役だと思う。監督は森田芳光。ふたりを取り巻く女性陣を常盤貴子沢尻エリカ中島みゆきなどが演じている。

間宮兄弟

間宮兄弟

実は映画をちょっと前に見ていたので、映像が脳裏に浮かびながら読んだ。いつも小説か映画かどちらを先にしようかと悩む。小説を先に読むと、映画を見るときに間違い探しを始めちゃうしなぁ。どっちもどっちだ。

気の合った者同士で暮らすのもいいものだと思う。やっぱりシェアハウスというのを一度は体験してみたいものだ。



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本で旅する

まだ働けていた頃にバリ島に行ったことがある。それが最後の海外旅行となった。少し街に出かけて買い物もしたし、ガムランなども見物させてもらったが、結局ホテルのプール際で寝転んだり白い浜辺を散歩したりしてのんびりできたのが一番良かった。

じゃ、わざわざ南半球まで出かけなくてもいいじゃんと言われれば、誠にその通りで、ホテルや旅館の外にちょっとした散策路があって部屋の他に寝そべることができる開放的なスペースがあれば私は大満足なのである。

バリの思い出の一つに郵便がある。実は試しに自分に宛てて絵葉書を出したのだけれど、日本に帰ってからとうとう届かなかったこと。もう一つは、ホテルのバーテンダーと仲良くなって、「カクテルの勉強をしたいんだ。日本語のでもいいから、本を送ってくれないか」と頼まれたので、帰国してから郵送したのだけれど、あれは無事に届いたのだろうか。

村上春樹の紀行文集『ラオスにいったい何があるというんですか?』は、ボストン、アイスランドポートランドギリシャの島々、ニューヨーク、フィンランドラオス、イタリアのトスカナ、熊本への旅の記録が綴られている。

この先の人生で行くことはあるかな、たぶんないだろうななどと思いながら、彼の地にそれぞれ思いを馳せた。

ボストンで交響楽を聴いて、アイスランドで温泉に入って、ポートランドで舌鼓を打ち、ミコノス島までクルージングして、ニューヨークのジャズクラブでグラスを傾け、フィンランドムーミンに出会い、メコン川をぼーっと眺め、トスカナのワインセラーで酔っぱらい、熊本でくまモンに押し寄せられる。そんなことを想像しながら楽しく読んだ。

ニューヨークのところで、もしもタイムマシーンがあったら、何処へ行きたいかという話があって考えたのだけれど、私は過去よりも未来に行きたいと思った。世界がどんな風に変わっているか見てみたい。平和で自然が豊かで、人々が穏やかであればいいのだけれど。



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